桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

熱田神宮の豊臣秀吉ゆかりの稲荷社は円形古墳だという謎

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稲荷・古墳・秀吉

 

熱田神宮名古屋市熱田区)から、 北に一キロほど離れた飛び地ですが、摂社の高座結御子(たかくらむすびみこ)神社が鎮座しています。

 

二〇一二年五月、僕がこの神社に向かったのは、境内に秀吉ゆかりの稲荷社があると聞いたからでした。

 

 

三菱系神社である土佐稲荷神社(大阪市)の宮司さんから、「秀吉さんは稲荷信者」と聞かされたことは以前のエントリーで紹介しました。

それ以来、「稲荷と秀吉」の関係が気になって、機会あるごとに秀吉ゆかりの稲荷社にお参りしています。

この日も、目的は「稲荷と秀吉」でした。

 

しかし、訪れたその稲荷社は、古墳(円墳)と一体の神社だったのです。

事前調査をサボっていただけなのかもしれませんが、ちょっとした発見の気分でした。

 

 

ふつう摂社というと、境内にある小さな祠のようなものですが、高座結御子神社の場合、摂社とはいっても、離れた場所にあり、サッカーの競技場並みの敷地をもつ広大な神社です。

 

歴史においても弥生時代古墳時代にさかのぼることができ、神社を中心とするエリアは、考古学のうえでは、「高蔵遺跡」「高蔵古墳群」と呼ばれています。

 

名古屋市名古屋大学による発掘調査が明治時代以降、何回かおこなわれており、その記録によると、神社を中心に七つの円形古墳(円墳)があったほか、弥生時代の環濠集落の跡、方形の墓が確認されています。

 鮮やかなピンク色の色彩が美しいパレス式土器(弥生時代)の発見地としても有名です。

 

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重要文化財 パレス式土器

東京国立博物館所蔵)

 

 

境内の一画に七十本ほどの朱色の鳥居がトンネル状に並び、稲荷社が祀られています。説明のパネルにはこう書かれていました。

 

当社は太閤秀吉が幼きころ、母に手をひかれお参りしたとの言い伝えから、「太閤出世稲荷」と称され、古くから立身出世、商売繁盛のお稲荷さまとして篤い信仰をうけ、ご神威にあやかろうとする方々のお参りが絶えません。

 

この神社の拝殿のすぐうしろにある小さな山が、高蔵古墳群の四号墳であるようです。

(「あるようです」という自信のない表記になっているのは、神社内に考古学的な説明パネルがなかったからです。信仰と考古学は両立しないのでしょうか

 

奈良の大神神社三輪山をご神体とするように、静岡県富士宮市浅間神社が富士山をご神体とするように、この稲荷社は、円墳の小さな山をご神体としているかのように見えます。

ものすごく、スケールダウンしますが。

 

円墳は、直径一五メートルくらいにみえます。

わかりにくいので、写真を三枚、並べてみます。

 

 

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 背景に見える木々の生えている地面が、すこし高くなっているのが、おわかりでしょうか。そこが円墳のようです。

 

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横からみると、こんな感じです。この斜面が円墳の高まりなのですが…。

 

わかりにくいので、もうすこし遠景で撮影しました。

 

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 結局、写真ではうまく撮影できませんでした。

 

 

 

円墳は秀吉の遊び場だったのかもしれないという空想

 

『新修名古屋市史 資料編 考古1』によると、高蔵古墳群のほとんどは、公園整備工事により破壊されたそうです。

よい状態で残存しているのは稲荷社裏の四号墳だけのようです。

 

『新修名古屋市史』の文章は考古学の研究者が書いているので、稲荷社のことはもとより、秀吉がらみの伝承についてはまったく触れていません。

 

 

すでに消滅している一号墳は直径一八メートルの円墳で、全長一〇メートルの横穴式石室があったといいます。

 川の石を石垣状に組んで、石室の壁を構築していたと報告されています。

 

 

母親に手を引かれて、幼少期の秀吉が、円墳と一体のこの稲荷社に参詣していたという社伝がほんとうかどうかわかりません。

でも、もし史実であれば、円墳の石室は、かっこうの遊び場であった可能性があります。

一〇メートルくらいある石のトンネルは、ちょっとした探検気分を味わえるはずです。

 

 

現在でも、管理がゆるやかな小さな古墳が、子どもの遊び場になっている光景をときどき目にします。

 

僕は昭和三〇年代の生まれですが、九州のいなかだったせいか、防空壕がまだのこっており、子どもたちの遊び場になっていました。

「コウモリ狩り」に行っていたのですが、成功事例をみたことがありません。

 

 

この社伝については、いくつかの解釈ができます。

 

ほんとうに秀吉母子は、この稲荷社にお参りしていたというのがひとつ。

 

しかし、戦後の歴史教育をうけた多くの人は、神社の由緒書きを文字通りには信じないはずです。

 

天下人になった秀吉が稲荷信者であるということを知った誰かが、こうした由緒を創作したのではないか。参詣者を増やすためのPRだったのではないか。

そのあたりが、もっとも現代的な解釈かもしれません。

 

しかし、なぜ、秀吉ゆかりのこの稲荷社は、円墳をご神体のようにしているのかという謎がのこります。

 

もし、この社伝がフィクションであるとしたら、その創作者は秀吉が稲荷信仰とともに古墳ともゆかりをもっていることを知っていたのでしょうか。

 

史実だとしても、創作だとしても、謎めいた話です。 (つづく)