土より出でて、土へ帰る ── 母の死を悼む豊臣秀吉の挽歌
左から五行目から、秀吉の挽歌二首。『大かうさまくんきのうち』 太田牛一の自筆本(汲古書院)
「なき人の かたみのかみを てにふれて つつむにあまる なみだかなしも」
「たかの山 かたみのかみを をくりぬる つちよりいでて つちにかへれと」
母親の危篤を聞き、九州の前線基地から駆け戻る
豊臣秀吉の母親が危篤状態となったのは天正二〇年(一五九二)夏、いわゆる文禄・慶長の役のはじまった年で、朝鮮半島への出兵で世の中がごった返している最中でした。
秀吉はそのとき、朝鮮出兵のための前線基地として急ごしらえした佐賀県唐津市の名護屋城に滞在中です。
母親の容体悪化を聞き、急遽、大阪へとひき返すのですが、その途中で訃報が届けられました。
秀吉は五十六歳。母親は八十歳に近かったようですから、当時としては長寿です。
京都の大徳寺で葬儀をおこない、墓をつくり、それとは別に高野山にも母親のための寺を建立しています。
太田牛一は織田信長の伝記『信長公記』の作者として名高い人ですが、『大かうさまくんきのうち(太閤さま軍記のうち)』という表題で知られる秀吉についての略伝も書いています。
そこに、母親の死に至る経緯とその後の葬送、母親の死を悼む秀吉の挽歌が記録されています。(『太閤史料集』二一三ページ、『大かうさまくんきのうち』翻字篇六二ページ)
たかの山 かたみの髪を 送りぬる 土より出でて 土に帰れと
「たかの山」とは、高野山のこと。母親の墓をつくった高野山に遺髪を送ったというだけの内容ですが、下の句の「土より出でて、土へ帰れと」が印象的です。
土器や土人形、古墳など「土」にまつわる文化をキーワードとして、秀吉について考えている当ブログとしては、二度、くりかえされる「土」に着目しないわけにはいきません。
この挽歌をみると、秀吉本人が「土」にかかわる一族という意識を強烈にもっていたのではないかという疑いが浮上します。
ここでも母親がかかわっています。
生命の根元としての「土」
秀吉には、よく知られた辞世があります。
二つの歌を並べてみると、どこか似ています。
「露」「夢」「土」というキーワードをたたみかける作風もそうですが、二作の背後にある死生観のようなものが同じ印象を与えるのかもしれません。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはの事も 夢のまた夢
たかの山 かたみの髪を 送りぬる 土より出でて 土に帰れと
「なにはの事」とは、大阪/難波に「何もかも」という意味を重ねる掛詞だそうです。岩波古語辞典に、「なにはに付けても」という語があり、「何事に関しても」と説明されています。
すべてのことは、夢のように消え、土に帰って、無となる──。
秀吉没後の歴史を知る私たちにとっては、豊臣一族の運命を暗示するようで、はかなくもあります。
和歌のよしあしを判定する能力は残念ながらもちあわせていないのですが、「 土より出でて 土に帰れと」の歌を、名作と言ってはいけないのでしょうか。
専門歌人の方々、古典文学の先生方、ぜひ、名作リストに推薦してください。
古今調、新古今調の流麗な作とはほど遠いとしても、この作品には、秀吉独自の世界観がみごとに表出されているのではないでしょうか。
生命の根元としての大地、生命の帰還先としての大地。
ここには、「土の思想」とでも呼ぶべきものがあります。
「土」とはすべての生命の根元であるとともに、秀吉とのかかわりが気になる土師一族の「土」であり、土器の「土」であり、土木の「土」でもあります。
やはり、「土」は秀吉を知るためのキーワードです。
(つづく)