個人が本屋さんになることのできる時代は、もうそこまで来ている
電子書籍にかかわるニュースは、できるだけウォッチするようにしていますが、「じぶん書店」のニュースは最近で、いちばん想像力を刺激されました。
スマホ一台あれば、誰でも、書店主になれるというサービスを、講談社とメディアドゥがはじめるそうです。以下の記事は日経新聞のニュースです。
講談社は9日、メディアドゥと共同で個人が電子書店を開いて講談社作品を販売できるサービス「じぶん書店」を4月に始めると発表した。3万2千点の作品から選んだタイトルの推薦コメントを入れるだけで電子書店を無料で開設できる。本が売れると販売額の1割の「コイン」がもらえ、他の電子書籍の購入などに使える。将来は他の出版社や動画音楽作品も加える。
利用者がSNS(交流サイト)でシェアをして電子書店を宣伝する。シェアされた作品はブラウザ上で試し読みできる。
旧来の出版システムでは、プロの編集者、プロの書き手がつくった本を、プロの書店員が売って、一般の人は本を読むだけという位置づけでした。
そうした構造は、完全に流動化していることが、このニュースでより鮮明になりました。
「アマチュア書店員」は、なかなか面白そうで、ごく単純にやってみたいなとおもいます。
アマゾンなどがやっているアフィリエイトに毛のはえたようなものだという評価は当然あるでしょうが、①講談社がやるということ ②一割が「じぶん書店」の取り分──というところにニュースバリューがあります。
ロシアの革命家にして、早稲田大学の教師──A・ワノフスキー
アレクサンドル・ワノフスキー(一八七四~一九六七)というロシア人が、戦前から戦中期まで、早稲田大学でロシア語やロシア文学を教えていました。私が文春新書『火山で読み解く古事記の謎』を書くことになったそもそもの原因は、ワノフスキーにあるのですから、まず、ワノフスキーとは誰なのかを申し上げる必要があります。
日本ではもとより、ロシアでもA・ワノフスキーの名を知る人はほとんどいないはずですが、彼は一種の歴史上の人物です。
ロシア語のウィキペディアには、A・ワノフスキーの項目があって、経歴が書かれています。
Ванновский, Александр Алексеевич — Википедия
箇条書きで、まとめてみると、以下のような人物です。
① レーニンなどと行動をともにしていたロシアの革命家
② 途中で革命運動に嫌気がさして離脱。
③ 日本に亡命して、早稲田大学で教師生活。
日本語で出版された本が一冊だけあります。
元々社という今は存在しない出版社から一九五五年(昭和三十年)に刊行された『火山と太陽──古事記神話の新解釈』という本です。
このとき、ワノフスキーは八十一歳。早稲田大学の教員をやめて、何年もあとのことでした。
私が個人営業している出版社は二〇一六年一月、『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』という本を出しましたが、この本はワノフスキーが書いた『火山と太陽』のほぼ全文を掲載するとともに、ワノフスキーの評伝、ワノフスキーの古事記論についての識者による解説などを盛り込んでいます。
古事記神話のなかに、火山の記憶を見た人はワノフスキーがはじめてというわけではありません。
もっと早い時期、物理学者の寺田寅彦は、スサノオ、ヤマタノオロチの物語などを火山の神話化したものだという論考「神話と地球物理学」を発表しています。
火の神カグツチを出産したあと、死に至るイザナミの物語については、多くの人が火山的な要素があると言っています。
ワノフスキーの古事記論がユニークなのは、古事記の最も深いところにあり、その骨格をなしている神話は、日本列島に住む人びとの火山についての記憶にもとづいていると断じていることです。
文春新書『火山で読み解く古事記の謎』という本は、ワノフスキーの説を出発点として、それを検証するため、火山と古事記の現場を歩きまわったルポルタージュ的な古事記本です。
日本語の能力も十分ではない亡命ロシア人が五〇年もまえに書いた本ですから、細部においてさまざまな誤認や間違いがあるのは仕方がないとおもいますが、ワノフスキーの古事記論のフレームワークはとても魅力的であり、真実に触れているとおもいます。
何回かにわけて、ワノフスキーの古事記論について書いてみることにします。
突然ですが、文藝春秋社から本を出すことになりました。
個人出版社・桃山堂を運営する蒲池明弘はこのたび、文藝春秋社から本を出すことになりました。『火山で読み解く古事記の謎』というタイトルで、文春新書の一冊として、三月十七日に刊行されます。
このブログは、電子書籍の話題を中心に桃山堂の取り組みを紹介するものなので、その趣旨には反するようですが、ライター/編集者/営業マン/宣伝部をひとりでやっている会社ですから、桃山堂の「ライター部門」からの報告ということで書かせていただきます。
桃山堂は、一年ほどまえの二〇一六年一月、『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』という本を出版しました。
電子書籍ではなく、普通の紙の本です。二七二ページ、二千円です。
私の出版活動よく知る人が、文藝春秋社の編集者Mさんと知り合いであったことから、『火山と日本の神話』を読んでもらい、この本のテーマをもっと掘り下げ、かつ、多くの人の共感を得られるようなかたちで本にすることができないかという話が持ち上がりました。
それで、企画書をメールで送ったら、企画会議を通ったという連絡をうけました。
昨年二〇一六年十月のことです。
それから半年で出版したので、いくらか突貫工事のきらいはあるのですが、ベースになる原稿はいくつかできていたので、それを合体させつつ、新たに取材した原稿を書き足して、本にまとめるという作業でした。
ベースになった原稿のひとつは、弊社ホームページに掲載している『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』の内容紹介の記事です。
ありていにいえば、宣伝記事です。
ただ、単なる内容紹介ではなく、『火山と日本の神話』をつくるときに取材したけれど、本には収容できなかった情報や写真、取材するときにいだいた疑問などを書いています。
備忘の目的をかねた宣伝ページです。
取材メモ「火山と古事記」 - 古事記、火山、秀吉──歴史を幻視する本 桃山堂
メモがわりに、疑問点などを書いていたことは、今回、文春新書用の原稿を書くときのスタート地点になったので、これは思わぬ効用でした。
文春新書の『火山で読み解く古事記の謎』と、このホームページ上の記事は内容的に違うところもあるのですが、一年前のスタート地点を見ていただくことも一興かなとおもって、とりあえず、そのままにしています。
文藝春秋の編集者さんは、ホームページ上のこの記事も見てくれていたようです。
ブログやホームページの面白い記事を出版社の編集者が〝発見〟して、それを土台に本を仕上げるということはごく普通におこなわれています。
ライターの立場でいえば、ブログやホームページに気になることやら、疑問点やら、考え中のことを書いておくことで、それが〝種〟となって、芽を出し、枝葉が育つということはあるとおもいます。
今回、〝種〟がうまく育ったかどうかは、読んでいただいた方に判断していただくことですが、〝種〟として機能したことは確かです。
それなら、パソコンのファイルにメモしてもいいし、紙のノートに書いてもいいではないかということになりますが、できるだけ自分の脳から離して、遠い場所に置いて、客観視するにはネット上というのはなかなか良い場所ではないかとおもいます。
自分のアイデアを客観視することの難しさと重要性はいつもいつも思うことですが、今回の企画でも痛感したことです。
そのあたりもふくめ、新書体験記を書いてみます。
羽犬伝説の筑後地方(福岡県南部)で、火山が激しく活動していたころ
私が個人営業している桃山堂という零細出版社は、このブログでメインテーマとしている秀吉伝説のほか、『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』という火山神話の本も出しています。
どうして、秀吉と火山なのだ、あまりにも支離滅裂ではないかと糾弾されることも多いので、その言い訳めいた話です。
阿蘇中岳火口から立ちのぼる噴煙。(2016年3月撮影)
羽犬のふるさと「筑後」とは何か
羽犬伝説のある福岡県筑後市は、福岡県といっても博多のある福岡市よりずっと南の熊本よりです。
福岡市などのある福岡北部を筑前というのに対し、筑後市とか八女市とか久留米市は筑後と呼ばれています。
気質とか言葉も微妙に違います。
関東、関西の人に、それを説明するのは困難ですが、乱暴に言ってしまえば、博多のある福岡市が東京二十三区だとすると、筑後地方は多摩地区です。
かえって話がこんがらがりそうですが、同じ福岡県でも、田舎的な性格がより濃厚である──ということです。
私の先祖が代々、暮らしていた福岡県八女市黒木町は、筑後地方のなかでも、さらに熊本との県境に近いところです。
9万年まえ、阿蘇が何万年に一度という規模のすさまじい巨大噴火をしたとき、火砕流が県境の山を越えて、八女市にも到達しています。
八女市岩戸山歴史資料館に掲載されていたパネルです。
岩戸山古墳、石人山古墳のあるあたりが筑後エリアで、このあたりまで火砕流(ピンク色)が流れてきています。
火砕流とは、大規模な噴火のときに生じる現象ですが、火山ガス、火山灰などによる気体と固体の混合した流動体です。
もともとはマグマですから、火砕流は冷えて固まると固体になります。岩状にがっちり固まると、溶結凝灰岩と命名されます。
固まり方がゆるいと、鹿児島のシラス台地のような土地になります。こちらは岩ではなく、土です。
阿蘇カルデラ噴火でできた石は、今でも商売に使われている
八女市に到達した火砕流は溶結凝灰岩となり、「八女石」と呼ばれる有用な石材となっています。
加工しやすく、見た目もいいので市場性の高い石なのだそうです。
江戸時代には、石橋の材料にもなっています。
石灯籠などの材料となり、八女市の郷土産品のひとつです。
阿蘇噴火に由来するこの石は、古代から加工に適した石として知られていたようで、八女古墳群には、「石人」と称される石の守護像が置かれています。
埴輪のかわりのようなものです。
これは、八女古墳群では最大の岩戸山古墳にあった「石人」です。
六世紀、継体天皇のときのヤマト政権と敵対して、戦いに敗れた筑紫君磐井を葬った前方後円墳だとかんがえられています。
羽犬の墓が、阿蘇噴火に由来する「八女石」かどうかは未確認です。
こじつけめいた話になってしまいましたが、羽犬伝説の筑後地方は、阿蘇文化圏の一角にあったことはご理解いただけたのではないでしょうか。
福岡県南部における、200万年まえの火山活動
私の先祖代々が暮らしていた黒木町は、もともと独立した自治体でした。その隣村を矢部村といいましたが、いまは双方とも合併により八女市の一部となっています。
矢部村には、200年ほどまえ、激しい火山活動があり、筑紫溶岩、日向神溶岩と呼ばれる火山岩としてものの本にその名をみます。
火山について、本格的に調べはじめたのはこの三年くらいですから、先祖の地がそのような恐るべき火山地帯にあるとは知りませんでした。
あまりに山間地の田舎すぎて、メジャーな観光地にはなれないのですが、矢部村には日向神渓という渓谷美をアピールするエリアがあって、もう四〇年以上まえの小学校のころ、何度か連れて行かれたことがあります。
「ひゅうがみダムに行く」という音として記憶していました。
日向神ダムです。
漢字でみると、にわかに妄想力のスイッチが入ります。
風景の記憶はほとんど残っていないのですが、いま、ネット検索してみてみると、典型的な火山的風景です。
矢部村にも、金山があって、近現代においては、大分県からつづいている鯛生金山の一部として知られています。
鯛生金山は一時期、産出量で日本一になっていた時期があります。
過去の累計による総産出量では、第五位です。
相当に規模の大きな金の集積が、この地にあったことは歴然とした事実です。
わが先祖の地である黒木町に隣接する星野村、矢部村には、大正、昭和時代までつづいていた金山の歴史があって、華麗なるゴールドに彩られているのですが、残念ながら、わが黒木町ではまとまった金は採れなかったようです。
鯛生金山の跡地。
ともかくも、このあたりは、日本でも有数の金山があったところであり、それは200万年ほどまえの火山活動により形成された金鉱床なのだとおもいます。
そうした金をもとめて、渡来人だとか、後醍醐天皇の皇子だとか、星野氏、五條氏などの武士団だとか、前の回にとりあげた徐福だとか、虚実おりまぜて、さまざまな人たちが行き交った痕跡があります。
そうした史実と幻想の土壌から、秀吉と羽犬の伝説が生じているのでないか──。その視点から、『秀吉と翼の犬の伝説』という電子書籍をつくり、こんなブログを書き連ねているのですが、先祖代々が暮らした土地への過大評価と、それにもとづく私自身の誇大妄想である可能性は否定できません。
まとまりのない文章になってしまいましたが、同じ福岡県のなかでも、筑前とは違って、筑後地方においては火山的な地質が濃厚であることはご理解いただけたのではないでしょうか。
それは、否定できない地質学的な事実です。