読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

桃山堂ブログ

豊臣秀吉の<謎>、火山と古事記の探究、電子書籍への挑戦。

国会議員も市会議員も「くじ引き」で選ぼう!

本の紹介 新聞

f:id:kmom:20160723144546j:plain

自分撮影。海は遠いので川の波です。

トフラーさんの選挙制度改革案

国会議員、地方議員は、くじ引きで選ぶのも一案ではないか──。

最近、読んだその本にそう書いてあるのをみて、その通り! だと拍手喝采しました。

 

一九八〇年ごろ、高校生だった僕は、父親の本棚からアルビン・トフラー著『第三の波』をとりだし、夢中で読んだのですが、うかつにも、「マスメディアはすでに崩壊の過程にある」とかかれていたことを完全に忘却し、新聞社に就職したのです。

これは前回、書いたことです。

 

もうひとつ、とても重要な論点をスルーしていたことに気がつきました。

それは「選挙」のことです。

 

参議院選挙が終わり、いまは東京都知事選の佳境です。

すっきりしない気持ちをかかえたままなので、今回は、「選挙」について考えてみます。

 

トフラー氏が『第三の波』を書いたのは一九七〇年代の後半、いまや世界史の一場面となったいわゆる冷戦時代です。

欧米(当時は自由主義・資本主義経済圏)の民主主義社会における選挙制度について、トフラー氏はびっくりするくらい辛辣な言葉をならべています。

議員代表制による政府、これをわれわれは民主主義と呼んできたわけだが、それは要するに、不平等を維持するために開発された、産業社会のテクノロジーであったとさえ言うことができる。議員代表制にもとづく政府は、代表制の擬制にすぎないのである。(117ページ)

マスメディアがマス(大衆)の声を代弁していないのと同様、選挙でえらばれる議員も国民/住民をほんとうの意味では代表していない。

選挙というシステムは、政治エリートが正当性を得ることを第一の目的とする儀式なのだだと糾弾しているのです。

 

そのうえでトフラー氏は、政治家や役人の一部は、「くじ」によって住民から選ぶのも一案だといっているのです。

少なくとも役人の一部は、くじ引きというもっとも旧式な方法で選ぶくらいの、思い切った方法をとる必要も出てくるであろう。

いまの陪審員選出の方法や徴兵のやり方で、将来の州議会議員や国会議員を選ぶべきだと、真面目に提案している人たちもいるのだ。(中略)任意に選ばれた代表が、現行の選挙制度で選出された人たちに劣るかどうかは、本気になって考えてみなければならない。(610ページ)

 

同感です。

 

日本でも陪審員制度にならって、裁判員制度が始まり、自分とは縁もゆかりもない暴力団による事件、性的な犯罪事件、その他もろもろの事件を、くじ引きで決めた市民に審議させています。

それなのに、当事者として詳細な情報/知識をもっている保育や教育や医療や介護の問題について、ほとんどすべての決定を、議員と役人に委ねています。

 

なにか変です。

 

くじで選ばれた一般市民の能力によって、犯罪者の処罰を決めることができるのならば、自分が住む地域の行政的な課題について、審議し決定することは可能であるはず。

四年に一度の「選挙」のほかに、なんの選択肢も示されないなんて、一九世紀的な悪習としかおもえません。

 

なぜ、政治の世界は旧態依然としているのか

 

コンピューターと通信システムによって、マスメディアは情報を中央集権的に独占することができなくなり、影響力を低下させる。

同じ理由によって、政治的なエリートの権威も失墜する。

一般の住民が行政のプロセスに直接かかわることが増え、旧来の民主主義を飛躍的に洗練させた新しいスタイルの政治が誕生する──というのが『第三の波』の描く二一世紀初頭の未来像です。

 

予言ということで評価するなら、判定は「はずれ」です。

 

たしかに政治家や官僚、役人は、ひところほど傲慢ではありません。

 

EデモクラシーとかEガバメントとかウェブ何点ゼロの集合知だとか、インターネットで政治のレベルアップをはかろうという議論もあります。

 

しかし、ビジネスや個人の暮らしが激変したことに比べると、政治の世界における変動が小さいことは明らかです。

 

僕はトフラー氏の信者でも弁護人でもありませんが、『第三の波』で提示されている方向性は正しいのではないかとおもいます。

それなのに、変化が見えにくいのは、なぜでしょうか。

 

個人生活やビジネス、マスメディアなどの領域に比べると、政治・行政の世界は、変化をこばむ力学がつよいということは確かです。

敗戦だとか、時代区分を画するような政治変動でも生じないかぎり、政治のルールを変更するのは、政治家の仕事とされています。

既得権をもっている政治家が、おいそれと、それを手放すはずもありません。

 

プロの政治家や役人には、直接民主主義的なアプローチへの嫌悪感がつよいという理由もあるようです。



選挙は「儀式」である

 

これも高校生のときには注意を払わなかったことですが、トフラー氏はユダヤ系のポーランド移民の末裔で、若いころは、マルクス主義的な思想に染まっていたそうです。

この本の表面に宗教的要素は希薄ですが、トフラー氏自身は、ユダヤ的預言者の資質をもった人なのかもしれません。

 

けっこう神がかっています。

 

 大量生産/大量消費にもとづく一九世紀的な旧体制を、トフラー氏は「第二の波」の社会とよび、その終わりの日は近いとくりかえします。

 

神の千年王国が到来するみたいです。

 

トフラー氏は、勝手知ったるマルクスの言葉を何度も引用し、手際よく、旧ソ連をはじめとする共産主義の国家体制を斬りつけてゆきます。

 

共産主義の体制は歴史的な進歩形態でもなんでもなく、大量生産/大量消費にもとづく「第二の波」的な旧体制の悪しき変種にすぎない。

彼が「第三の波」と命名した情報/知識の流通の爆発的な飛躍により、早晩、消滅する運命にある古い社会システムだというのです。

 

ソ連や東欧の共産主義国家で、『第三の波』は危険な書物として禁書あつかいにされたので、地下出版され、密かに読まれていたそうです。

『第三の波』は世界的なベストセラーというだけでなく、神秘の力を隠しもつ<預言書>だったのでしょうか。

ちょっと不思議な本です。

 

ソ連や東欧は、共産党一党独裁によって統治する国家でしたが、選挙制度はあって、共産党候補者が、ほぼ百パーセントの支持をえて当選する仕組みでした。

今も似たような国は、いくつかあります。

 

八百長というか、インチキ選挙もいいところです。

欧米それに日本の人たちは、あんなものは選挙ではない、民主主義が存在しない証拠だと笑っていたわけです。

 

ところが、トフラー氏は選挙のほんとうの目的は、政治エリートに正当性を与えることにある。それは「確認の儀式」にすぎないとして、こんなことを書いています。

だれが当選するかにはまったく関係なく、選挙そのものが、エリートにとっては強力な文化的機能を果たしているのである。

だれもが一票を投ずる権利を与えられることによって、選挙は平等の幻想を醸成した。(中略)資本主義国でも共産主義国でも、こうした確認の儀式が行われることの方が、選挙の結果そのものよりはるかに重要な場合が多い。(114ページ)

 

日本については、どうでしょうか。

選挙は「儀式」でないと言い切れるでしょうか。

議論をわかりやすくするための一種の極論ではあるのですが、いまの高校生には、聞かせないほうがいいような、「毒」のある文章です。

 

学校の先生や選挙管理委員会が、選挙は政治参加のためのたいせつな権利です、よく考えて、ぜひ、一票を投じてくださいと教えても、「あんなの儀式だ」といわれると、せっかくの意欲もなえてしまいます。せっかくの十八歳選挙権がだいなしです。

 

共産主義大国ソ連には、「プラウダ」という国営の新聞社がありました。この新聞は世界一の発行部数を誇り、そのころの世界第二位(たぶん。でも未確認です)が読売新聞でした。

僕は一九八五年、読売新聞社に入ったわけですが、ベルリンの壁が壊され、ソ連がコケてしまったので、「世界一の発行部数」は読売新聞のキャッチフレーズになりました。

 

トフラー氏による近年の議論が知りたくて、『富の未来』(日本語版二〇〇六年刊)のページをめくっていると、こんな記述がありました。 

日本は、長年にわたって国内の均質性を誇ってきた。この均質性によって、大量生産、大量消費市場、マス・メディアに基づく経済の必要に適した大衆社会が発達した。

均質性を維持し、社会対立を減らす方法のひとつとして、移民の流入を制限してきた。しかし、明日の先進的な経済では「非マス化」が進んでいく。多様化が進み、大衆ではなく、個人に焦点をあてるようになる。(5ページ)

 

トフラー流に解釈すれば、日本は、大量生産/大量消費にもとづく「第二の波」的産業社会を、みごとにつくりあげ、いまなお、それを維持している国ということになります。

読売新聞、朝日新聞という世界でも特異なほどに巨大なマスメディアの存在が、それを証明しています。

 

トフラー氏の議論では、政治姿勢の右、左にかかわらず、マスメディアは、選挙にもとづく議会政治に不可欠の<補完機構>ということになります。

ありていにいえば、国民大衆の<ガス抜き>担当です。

 

<ガス抜き>のパワーにおいて、朝日新聞のほうが読売新聞よりすぐれていることは明らかです。

話が変な方向に転がってしまいました。

朝日新聞の悪口になりそうなので、このあたりで失礼します。