「試験によく出る評論家」小林秀雄と亀井勝一郎の共通点は美形であること。
前回のエントリーで小林秀雄の文庫本を半ば義務的に読んでいたことを書きながら思いだしたのは、亀井勝一郎です。この文人も「試験に出る評論家」として、昭和時代の高校生に推奨されていたのですが、いま私が読んでいる『日本の古代を読む』というアンソロジーに収録されており、それが抜群に面白い古事記論なのです。
『日本の古代を読む』は、最近、近所の本屋さんの棚に入っているのを見て購入し、寝る前にすこしずつ読んでいます。
万葉集研究で著名な奈良大学の上野誠教授が編者・解説者をつとめています。
収録作品の筆者は以下の通り。
瀧川誠次郎
青木和夫
三浦周行
W・G・アストン
辻善之助
林屋辰三郎
アストン、折口信夫、和辻哲郎など別ジャンルの筆者もふくまれていますが、大学で歴史を教えていた先生がほとんどです。
亀井勝一郎は、雑誌や書籍のための文章を書いて生活していた評論家ですから、このなかでは毛色の違う人です。
亀井勝一郎は古事記に「楽園追放」の人類史的記憶を読んだ!
収録されている亀井作品は『神と人との別れ』。
日本書紀との比較で、古事記の性格についてこのように述べています。
『古事記』とは、古代人の「原始古代人」への憧憬の詩書であり、『書紀』はそれと表裏した悔恨の史書とも言えるのではないか。
「神代」という失われたものへの限りない愛着、神々の喪失感から、あの大らかに古撲な文章が生まれたのではなかったか。
亀井勝一郎の文脈で、「神代」は、「原始古代人」の世界と重なっています。
縄文という言葉も、弥生という言葉も出ていませんが、奈良時代の人たちが遠望する「原始古代」を、私は勝手に「縄文時代」と読みました。
「言葉の誕生と伝承」のなかで述べたように、神々のいのちとしての言葉の純化と、その保存を第一義としたのだ。
少なくともそこに主眼点をおいたとみられるし、さらに注目すべきことは、仏教伝来という事実が完全に黙殺されていることだ。
こんあたりの啖呵の切り方は、歴史学者、古事記学者には真似できないもので、聞きほれてしまいます。
亀井勝一郎は日本書紀も評価、そのながれで本居宣長の死角を指摘
でも、古事記をこうしたアングルから評価する人は、ほかにもいます。
亀井勝一郎の論考が出色なのは、古事記とは違った性格をもっている日本書紀の神話的側面を高く評価していることです。
よく知られているとおり、本居宣長によって、日本書紀は、中国的合理精神の産物であると見なされ、古事記に対してマイナス的な価値を帯びることになります。
亀井勝一郎は、そこに本居宣長の死角が生じているというのです。
宣長は神々に近づこうとした人である。「楽園恢復」を志した人だ。しかし逆に神々から別れつつある、いわば「古代人」の深い動揺があった。
一切の漢心を拒絶することで、彼はこの動揺の実体を見失ったのではないか。
古事記が <古事記が「楽園追放」以前の思い出> であるならば、日本書紀は <追放の過程──即ち神人分離の記録> であると、亀井勝一郎は断じています。
人類にとって「楽園」の記憶とは何かというテーマは、これまた難しい問題で、宗教的な救済としての理解も、歴史的な記憶としての解釈もできるはずです。
どうしてこんなに売れているのだろう? という興味から購入してしまった『サピエンス全史』でも、そのあたりがテーマのひとつになっていました。
もちろん、後者の視点ですが、これだけ科学や技術文化が進歩しているのに、現代人の幸福度は、新石器時代の人類より低い可能性が高いという指摘です。
新石器時代はだいたい一万年くらい前からですから、日本の時代区分の上では縄文時代。
日本人にはわりとお馴染みの議論で、「自由で平等、幸せな縄文人」というやつです。
古事記を「楽園追放」の物語として読み解く亀井勝一郎の論考は、『サピエンス全史』にも結びつくような、現代的でスリリングな内容です。
名だたる古代史家をそろえたアンソロジーの<とり>に、亀井勝一郎をもってきた上野誠先生の慧眼に敬服します。
このアンソロジーの冒頭を飾るのが、本居宣長の「うひ山ぶみ」ですから、江戸時代後期から昭和時代にかけての、古代をめぐる日本人の論考が、円環構造となって、亀井勝一郎につながっているようにも見える構成です。
プロローグとエピローグのような感じ。
古事記にかかわる文章だけを集めたアンソロジーではありませんが、津田左右吉、井上光貞、石母田正など、古事記研究史における名だたる登場人物もそろっており、「古事記本」としても楽しめる内容です。
超ハンサムなおじいさん
ところで、小林秀雄に次いで、「試験に出る評論家ナンバー2」だった亀井勝一郎のどの作品を、高校時代の私が読んだのかまったく記憶にありません。
小林秀雄の文庫本は概して薄かったのに比べ、亀井勝一郎の文庫本はどれも厚かったのではないだろうか──。そうした触覚的な、指先の記憶がぼんやりとある程度で、脳の内部になんのデータも蓄積されていないことは情けないかぎりです。
受験勉強の延長として、無理りやり目だけ動かし、活字を追っていたことは明らかです。
『日本の古代を読む』の帯に印刷された写真を見て、私は亀井勝一郎という人の顔を知らなかったことに気がつきました。
いちばん左が亀井勝一郎。
鼻は高いし、目はぱっちり。
うーむ、こんなにハンサムなおじいさんだったとは!
若いころの写真はこちら。
太宰治と仲が良かったそうです。
相当、悪いことをしたのではないかと心配してしまいます。
そういえば、小林秀雄も美形だし、声もすばらしい。
私たち昭和の受験生を苦しめた名文家のお二人がそろって美男であることと、お二人が昭和の出版の世界において売れっ子であったことの間には因果関係があるのでしょうか?
上野誠編『日本の古代を読む』が私にもたらした、もうひとつの<謎>です。