原稿がまるで書けない僕を救済したのは、ワープロ専用機(東芝ルポ)だった。
最近このブログで、Y新聞社に入社した三十年まえのことを書いたからでしょうか、封印がはずれたかのように、いろんなことを思い出すのですが、いかに原稿が書けなかったかという悪夢のような記憶もよみがえってきました。
旧石器時代の新聞社
何年かまえ、三十代半ばとおぼしき新聞記者(女性)と業務上の会話をしていたとき、ふと、私が新聞社に入ったときには原稿を手書きしていたという話をすると、ものすごい驚愕の表情をされたことがあります。
旧石器時代人を見る現代人のような──という比喩が誰かの小説にあったとおもうのですが、大枠では同じ現生人類とはいえ、進化の系統図のまったく別の段階にいる人であると思われたのでしょうか。
三十年まえの新聞社で、新入社員に基本的な人権がなかったのは確かですし、デスクは支局で仕事をしながら日本酒を水がわりに飲んで、暴れ回っていましたから、混沌とした状況でした。
旧石器時代よりは進化していたはずですが、前近代的であったのはたしかです。
悪夢的記憶はとめどなくよみがえるのですが、悪夢の光景のなかに新聞記事用の原稿用紙があります。
学校の作文、あるいは昔の小説家の先生がつかうような四百字詰めの原稿用紙ではなく、マスは二センチくらいあって、五十字も入らないようなヘンテコな原稿用紙です。
今の新聞社とちがって、記事の書き方のマニュアルなどなかったし、手取り足取り親切に指導してくれる人もいませんでした。
先輩が書くのを見て、まねしながら覚えていくのです。
まるで、職人とか料理人の世界。
徒弟社会の雰囲気でした。
優秀な先輩
同じ支局には、端正な原稿を、すらすらと書きあげる先輩がいました。
涼しい顔をして、原稿用紙にマジックペンで記事を書いていくのですが、棒線で字を削除したり、カッコで挿入することもほとんどなく、やや神経質な文字が原稿用紙をきれいに埋めてゆくのです。
厳しいデスクのチェックも短時間で通過し、ほぼそのままのかたちで次の日の朝刊に掲載されます。
同じ長さの原稿を書くのに、私はその先輩の三倍も四倍もの時間を要し、五枚も六枚も原稿用紙を丸めて、はじめから書き直していました。
たいへんなのはそこからです。
デスクは私が苦労して書きあげた原稿を修正して、商品レベルにもちあげようとするのですが、なかなかうまくいきません。
やがて表情は怒りでゆがみ、「お前は俺を殺す気か」と低い声でつぶやきます。
さらに、ひどい出来の原稿のときは、
「死ね!」
と言って、原稿をまるめて、ゴミ箱にポイされました。
「半年もすれば、誰でもうまく書けるようになるよ」
とその先輩はなぐさめてくれました。
「パターンを覚えてしまえばいいんだ。新聞記事なんて、いくつかのパターンの繰り返しだから」
でも、一年を経ても、二年が過ぎても、原稿を書く早さも、品質も低レベルのままでした。
ライター的な仕事を経験した人であれば誰もが考えることですが、原稿を書くのがうまい人には天性の才能があるように見えます。
読書量とか経験とか努力ではなく、書くのがうまい人は、最初からうまい──という説は酒席ではしばしば話題になりますが、研究者によって証明された学説ではありません。
でも、私が見聞きした範囲だけでも、状況証拠は十分にそろっているとおもわれます。
歌をうたうのがうまいとか、走るのが速いとか、そういう世界と似ているところがあります。
その先輩には文章を書く生まれながらの才覚があり、残念ながら、私にはその種の才がないことは歴然たる事実といわざるをえません。
ワープロ専用機は僕のへたくそな原稿を突如、レベルアップしてくれた
Y新聞の地方支局で、手書きの原稿からワープロ原稿へ移行したのは、一九八八年だったと記憶しています。
私が入社して三年目か四年目です。
メーカーは東芝で、「ルポ」という機種名。
現在のノートパソコンより、二回りくらい大きく、重量感がありました。
ワープロに「モデム」とかいう装置をつけて、原稿を電話回線で、送信していました。
原稿の末尾に、+++ のマークを入れて、実行すると、
ぴー、しゅー、ぴいーーー
というような、せつなげな電子音とともに原稿が魔法のように飛んでゆきました。
どんな仕組みだったのか、謎です。
【楽天市場】ワードプロセッサー > ワードプロセッサー 東芝【TOSHIBA】 > 東芝Rupo【ルポ】その他 > JW01:CREWBAR LAND
ワープロ専用機の出現によって、私の原稿は突然、レベルアップしました。
ゆるやかな上昇カーブの曲線ではなく、棒グラフのように、非連続的に、原稿がうまく書けるようになったのです。
どうしてこれを記憶しているかというと、デスクに手直しされる青のマジックの分量が目に見えて減ったからです。
当時の私は原稿を人並みに書けるようになったのは、それなりに努力した成果であり、仕事になれてきたからだと、自分を高く評価する方向で解釈していました。
しかし、いま、第三者的に当時の自分をおもいおこすと、原稿がレベルアップした要因の九〇パーセント以上は、ワープロの機能に由来すると結論づけざるをえません。
というのも、その後、新聞社に勤務した十数年、そして現在に至るまで、入社四年目の原稿レベルから、たいして上昇していないからです。
このブログは原稿料が出ない文章だから、手を抜いてダラダラ書いているのかと誤解されるかもしれませんが、一生懸命書いても、こんなものです。
文章をうまく書けないという自覚症状はいまでも持っており、最近、アマゾンキンドルで、『わかりやすい文章を書く全技術 100』(大久保進)という本を買って読んでいるところです。
小林秀雄先生にもお勧めです。
小林先生が、この本を読んでいれば、受験生が正解を誤るような文章を書くこともなかったのにと悔やまれます。
でも、それだと、現代国語の試験にはならない?
なぜ、ワープロがあれば、あるレベルまで原稿が書けるようになるのだろう?
新聞記事の大半は、一日で完結する仕事です。
昼間に取材したり、記者会見で聞いたことを、夕方、原稿にまとめて、次の日の朝刊に掲載されるというパターンです。
午後六時までには原稿を出せといわれていました。
刻々と迫る締め切り時間。
ある行を削除し、新たな言葉を挿入する。
それでもだめで、頭をかかえて何度も修正を重ねる。
冷や汗がじわり。
マジックペンでの手書き時代、あせればあせるほど、原稿用紙は文字と線が入り乱れ、収拾がつかなくなってしまうのでした。
しかし、ワープロは、削除も挿入も移動も整然とおこなってくれます。
実に助かりました。
急ぐ原稿ではなくて、特集記事、連載記事のような長い原稿を書くときに、ありがたかったのはプリントアウトの機能でした。
プリントアウトされた原稿からは、流れの悪さ、不必要な記述、不足の要素など、原稿の欠点が、マーカーペンで色でもつけているようにはっきりと見えたのです。
それは、原稿用紙の手書き原稿を推敲するときとは、まったく違う感覚でした。
しつこいほどプリントアウトをくりかえしました。
五回、十回と重ねるうちに、どうしようもなかった最初の原稿を、まあまあのレベルまで引き上げることができるようになりました。
プリントアウトを見ているあいだに、新しいアイデアが浮かぶという恩恵もあります。
その習慣というか悪癖は、本を出す作業をするようになった現在もつづいており、今回、文藝春秋社から『火山で読み解く古事記の謎』という本を出したときも、最終段階のゲラで、大幅な直しをすると言いだし、担当編集者さんを困らせてしまいました。
一回分、よけいにゲラ出しをしてもらったので、コスト的にも迷惑をかけてしまい、この場をかりて陳謝する次第です。
ところで、原稿のうまい先輩は、メカにもつよかったようで、支局のメンバーのなかでもいちはやくワープロに習熟し、あいかわらず、軽やかに原稿を仕上げていました。
ほとんど完璧な原稿を一発で書いてしまうので、プリントアウトも必要ないくらいです。
ほどなく、新聞社の地方支局にワープロがあるのが、当たり前の日常的な風景となりました。
先輩の原稿は相変わらず、みごとなものなのですが、あるとき、かつて感じていたはるか彼方の雲の上というような、絶対的な差がなくなっていることに気がつきました。
その理由ははっきりしています。
先輩はワープロの恩恵をほとんどうけないほど原稿がうまかったのに対し、私はワープロによる伸びしろが、ものすごく大きかったからです。
一筆書きのように、サラサラと完璧な原稿を書くことができる人は、脳内に特殊な回路が最初から出来上がっているとしかおもえません。
そうした脳内回路を保有していない私は、何度も行きつ戻りつ、モタモタと原稿を書くしかないのです。
あのころもそうだし、今もそうです。
そのような人間にとって、ワープロの出現は、たいへんな恩恵だったと今になって痛感しています。
がんばれ、東芝
東芝が発明したわけではないと思いますが、記憶の中のワープロ専用機は東芝に結びついています。
ありがとう、東芝ルポ!
ダメダメ記者の僕にとって、あなたは救いの神でした。
「神」というのが言い過ぎなら、「育ての親」かもしれません。
二十代だった僕が、伝えることができなかった感謝の言葉を、ここに記しておきたいとおもいます。
その東芝が今、かつてない苦境のなかにあります。
日本の良き技術文化を継承する東芝の復活を祈っています。