ほんとうの勝負はこれからだ!
自分撮影。近くの公園。
なぜ、新聞社をやめて小さな出版社などやっているのか
どうして読売新聞社をやめて、吹けば飛ぶような小さな一人出版社などやっているのか──ということは、初対面の人にときどき聞かれることです。
もちろん、こんな露骨な言葉ではありませんが、さっしの悪い僕にも、質問者の真意はつたわります。
読売新聞の部数はひところ、一〇〇〇万部を超えており、減少したといっても、九〇〇万部くらいは出ています。
弊社、桃山堂の本の部数は、一〇〇〇部から一五〇〇部です。読売一〇〇〇万部時代をおもえば、ゼロの数が四個も違います。
新聞社は、公益性のある仕事だからといって、いろいろと社会的な負担をおまけしてもらっていますが、従業員には、けっこういい給料を払っていました。(最近の事情は知らないので過去形です)
小さな出版社の仕事は無尽蔵で、土曜も日曜も働いていますが、それに対する経済的報酬は──恥ずかしくて、とても言えません。
睡眠に移行するわずかの時間は、定例の「一人編集会議」です。運良く、いいアイデアが出てくれば、忘れないようにメモします。
そして、夢のなかで、すばらしいアイデアが降りてくるのを待ち構えます。
残念ながら、モーツァルト的な奇跡の時は訪れず、睡眠の質だけがムダに悪化してゆきます。
三百六十五日、二十四時間営業です。
一人ブラック企業の蟻地獄です。
ブラック企業だろうが地獄だろうが、住めば都と申しますか、慣れてくると、いろいろと楽しいこともあって、つづけているわけです。
出版社をつくるにいたる経緯には、すこし面倒な事情もあるので、ふつうは、
「もともと本をつくる仕事をしたいとおもっていたのです」
と答えます。
出版社に入って、できれば雑誌かんけいの仕事をしたいという希望をもっていました。大学生のとき、仲間とミニコミ雑誌をやっていたからです、という程度の安易な動機です。
新卒採用を公募している出版者はほぼすべて受験したのですが、ダメでした。それで新聞社に入ったわけです。
それでも、二〇年近く、新聞記者をつづけることができたのは、文章を書くことに喜びを感じていたからです。
高校時代、にわかに書くことへの意欲をふくらませた僕は、当時、定期購読していた高校生向けの雑誌の投稿欄に作品のようなものを送りはじめました。
たまに掲載されると、活字で印刷された自分の文章をあきもせず眺めて悦に入っていました。
それは新聞記者になってからも、同じです。
どの新聞社も似たり寄ったりですが、だいたい四〇代になると、取材現場を離れて、管理職的な仕事につくようになります。
専門分野があり、有能な記者であれば、論説委員とか編集委員という幹部記者の待遇で記事を書きつづける道があります。世の中に広く知られたスター記者のような人もいます。
リーダーシップにすぐれていれば、各部門の幹部となり、取締役となって会社の経営にかかわることになります。
残念ながら、僕はそのどちらでもありませんでした。ダメ社員として、四〇代を迎えてしまったのでした。
四〇歳の僕は会社人としての未来に絶望した
新聞社に勤務していた最後の年は、とても「簡単」な仕事をしていました。 楽勝すぎる仕事をするうちに、精神状態は次第に、どんよりとしてきました。
記事を書く部署ではありません。書く仕事をしているときと、給与はほとんど変わらないのに、仕事は楽で、勤務時間はずっと短いのです。
時給にすれば、ものすごい上昇率です。
それなのに、次第に気が滅入ってくるのです。
人間はある程度、負荷のかかる仕事を与えられ、苦しみながら、なんとかやり遂げることに、やりがいを見出すのでしょうか。
その反対は、人間を絶望におとしいれるのでしょうか。
苦しみが歓喜への入口であり、安楽が絶望の原因であるのが真実であれば、人間という動物は、なんと面倒な存在なのでしょう。
進化のベクトルそのものが、何かまちがっている気がするのですが、僕が一人で進化の方向を修正することなどできない相談です。
この手の話は、どこの会社、どの組織にいても起きることだとおもいます。
僕がそのとき見たのは自分の未来だったわけです。
四〇代、五〇代、定年延長で七〇歳ちかくまで働くわけですから、<三〇年分の未来>です。
そのとき、二つの選択肢があったことになります。
① 満足しない仕事でも淡々とこなし、定年退職を待つ。それなりの貯蓄ができて、安定した老後をむかえることができる。
② 会社をやめて、文章を書くことをとおして、未知の可能性にかける。収入は激減し、老後のことは無計画状態となる。
会社では死んだふりをして、勤務時間外に、自分のテーマで資料をあつめ、原稿を書くという道があったのかもしれません。
当時はそんなこと思いつきませんでした。
結局のところ、会社をやめる理由をさがしていただけなのだとおもいます。
もう五〇代なのか、まだ五〇代なのか、それが問題だ
その後、いろいろあって、個人営業の小さな出版社をつくって、たいして売れもしない本を出しています。
成功への道ははるかに遠く、いまだに失敗と試行を重ねるばかりの日々です。
まわりの人たちに迷惑をかけたわりには、たいした成果は出ていませんが、まちがった選択ではなかったとおもっています。
僕は取材を重ね、多くの方の協力を得て、本をつくることができました。
発行部数は微々たる規模ですが、ありがたいことに、心ある人たちに読んでいただき、励まされ、すっかり、元気をとりもどしました。
本を出すことは、結果として、自己救済の手段でもあったのです。
書くということは、人間に考えることを促します。書くことによって、本を読む密度はものすごく高まります。
書くことは、人間の成長につながる教育効果があるといわれます。
小学生の段階から、「作文」が推奨されているのはそのためです。
読むことについても、まったく同様です。
その効能は何歳までつづくのでしょうか。
僕はもう五〇代になりましたが、まだ、五〇代という気もします。
書いて、読んで、本を作りつづけることによって、もっともっと成長できるのではないかという奇妙な確信があります。
僕の父親は、五十五歳で、勤めていた地方銀行を定年退職しました。
自分の年齢がその目前にあることに、驚愕します。
定年退職した当時の父親といまの自分を比較すると、顔つきや言動をふくめて、すべて子供じみている自分が恥ずかしいです。
僕ひとりが、変なのでしょうか。
そうかもしれませんが、世の中全体がすっかり変わってしまったのだとおもいます。
地球上のほぼすべての地域で、人間の寿命は、その上限がどこにあるかわからないまま、伸びつづけています。
神の見えざる手といいますか、どこかで誰かが調整してるのでしょうか。
人間の精神の成熟速度は、急速にスローダウンしているようにおもえるのです。
もし、それが事実なら、この僕にも、成長のチャンスがあるかもしれません。
ほんとうの勝負はこれからだ!
そう自分に言い聞かせ、当面は、悪あがきをつづけるつもりです。